こんにちは、黒猫の美術教室です。
最近体調があまり良くありませんでした。メッセージをいただいた方々、有り難うございました。大丈夫ですので、しっかりと頑張っていきます。
さて、今回は昔話をしようかと思います。画歴や教室を始めたきっかけ等です。
教室開講のきっかけに関しまして、かなり聞かれます。
僕の年齢で自分の教室を持ってるのはなかなか珍しいので、皆様気になるのでしょう。
大きな展覧会を控えていますし、自分で思い返すのも必要かと思い、出来る限り正確にまとめていきます。
僕の華麗なる受賞歴が、いかにくだらないものかをお話していきます。
ではいきましょう。
きっかけ
十代の後半で弟子入りします。
今の時代なかなか珍しいと思います。
美術の道を目指すのに美大に入るのが普通かと思いますが、僕の場合は少し違います。
理由ですが、
まず、丸山家はかなりお堅い家柄で、絵を描くのにはずっと反対されてきました。
とにかく勉強。そういう家柄でした。
兄弟は、それに従い優秀な大学に入り、優秀な仕事をしていると聞いています。
が、残念ながら僕は丸山家では異質でした。
絵を描くのが好きだったのです。
勉強はやらされていただけで、僕は絵を描くのが好きだった、まぁそういう事です。
ということで、親の協力は得られませんでしたので美術の学校には行けず、弟子入りという形をとったのです。
そして横須賀を出ます。
修行時代
一番辛かった時期です。
いまだに思い出すと冷や汗が…。
そこには同じ年齢の人達が、数人いました。
一緒に切磋琢磨した友人達です。
因みに今思うとですが、最初は僕が一番下手だったんじゃないかな…と思います。
才能も無いです。
小さい頃から絵を描くのは好きでしたが、絵画教室の先生や美術部の先生に恵まれず、充分な美術教育は受けれて無かったので。
僕が子供の頃は、黒猫の美術教室のような場所は無かったですからね。
当時の絵です。
先生に「健太君、一週間後に展覧会決まったから。」と、言われて急いで描いた絵です。
早く終わらせる為に水彩絵の具で描いています。駄作です。
さて、ここから鬼のように絵を描きます。その中で知識、技術をつけていきます。
先生からの毎週の宿題は二つ。
・自画像を毎週ひとつ仕上げ持ってくる
・毎週一冊本を読む
この二つです。これを三年続けること。
結果からいうと僕はこれを五年続けます。
自分に負けるのは嫌いな性格です。
さて、自画像を毎週一枚というと、もう飽きてくるんですよ。
鏡を見ながら描くんですが、顔は変わりませんので飽きてきます。
変な顔をして描いてみたり、服を脱いで描いてみたり、色んな自画像を描きました。
ここまで自画像を描かされた理由は、自分自身を知らなければ対象を描ける訳が無いといったものです。
二つ目の本ですが、これは理由を聞いた事がないのでわかりません。
なんの本でもいいから一冊読むという課題です。
元々本を読むのは嫌いではなかったので、こちらは楽勝でした。
さて、当時の僕はとても大人しく、現在の教室の子供達と比べてもぶっちぎりで大人しかったでしょう。
この先、あるきっかけで変わるのですが、まだまだ先のお話です。
悪魔
当時の僕はお金もなく、バイトをして余った時間は全て絵を描く。
こんな感じでした。
親からの支援は受けれませんでしたので、自分でなんとかかんとか頑張っています。
ここからさらにどっぷりと美術の海に潜り、深海に突入します。
この頃夢を見ます。
悪魔が夢の中に出て来たんですね。
姿ははっきり覚えていないですが、なんとなく「悪魔」と記憶しています。
※夢です。ヤバいやつじゃないです。
そこで悪魔と契約します。
他の全てを捨てるので、画力を下さい。
これですね。
僕は最低限の人間性を残し、他は全て捨てたのです。
なので、未だに僕には美術以外何も無いです。
捨てるものが無くなった人間は強いもので、厳しい先生からの要望に全て答え、自分でも研究して絵を描き続けます。
一応書いておきますが、皆はこんな描き方しては駄目です。
これは悪い例です。
それに皆は保護者様のご理解があり、子供の頃から美術を学べているので、こんな描き方は全く必要ありませんので、絶対にしないでくださいね。
この頃、同期の中では一番上手くなっており、一番弟子になりました。
何故一番上手くなったか。
単純です。
一番描いたからです。
そこから同期は、一人、二人とやめていき、切磋琢磨していた同期のほとんどはいなくなっていました。
この頃から、先生のご友人や仲間と一緒に行動し始めます。これが、今後の僕の人生を決めるきっかけになります。
重鎮の先生方
美大に入れば同年代の人達とわいわい楽しい美術ライフだと思いますが、僕は違いました。
先生のお仲間(おじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃん)と一緒に行動します。
しかもそれらの全てが横浜の美術の重鎮達です。
先生もそうですが、皆様ハマ展の重鎮の方々です。
皆様掛け持ちで、全国区の美術団体にも所属してましたね。
僕のような若いのは珍しいので、ものすごい可愛がられます。
一緒に展覧会をして、パーティーをして、食べさせてもらい、色々な事を教えてもらいます。
そのどれもが今も残っております。
また、各地の画廊、画家を紹介してもらい、親交を深めます。
絵描きは横の繋がりが大事なのです。
因みに、今回の展覧会の皆の額縁は、この頃から仲良くして下さっている「ギャラリーしみず」さんにお願いしています。額縁屋とギャラリーを併設されています。
こちらのギャラリーでの展覧会のお誘いもいただいております。
少し先になると思いますが、考えていきたいと思っています。
当時の僕の絵です。
犬とひよこです。犬は鉛筆で描いてます。
さて、皆様あまり馴染みが無いと思いますので、パーティーについてちょっとお話しておきます。
絵描きはパーティーが大好きです。
展覧会の初日に必ずと言っていいほどパーティーをします。
基本的には、会場にて立食形式のパーティーです。
このパーティーの始まりは絵の購入の為のものだったようですが、今はその影はなくただのパーティーです。
僕はお酒も飲めないし、喋れないし、あまり好きではなかったのですが。
まぁ、親交を深めるきっかけとして、大切なんだろう…とは当時思っていました。
前述しましたが、絵描きとしてやっていくのには横の繋がりがかなり重要ですので。
さて、話は戻りまして。
この頃は仲間(大先輩の方々)から画壇の話を聞いて興味を持ちます。
前述しましたが、その大先輩の方々は画壇の上の方の方々ばかりでしたから。
コンクール
さて、画壇に興味をもった僕は、さらに鍛練を続けます。
この頃、同年代の若手の中でも抜けて上手くなっていました。
死ぬほど描きましたので、自信もありました。
今の僕から見たらそこまででもありませんが。
繰り返しますが皆はこんな描き方しては駄目ですよ。
僕はひとつだけ、誰にも負けない部分があります。
絵を描いた時間です。
絵を描いた時間選手権がありましたら、僕は間違いなく日本代表に選ばれるでしょう
まぁ、才能無いから沢山描いたといったところでしょうか。
教室の子供達見てると、その才能に驚かされます、本当に。
さて、また脱線しましたので戻ります。
画壇ですね。
皆様あまり知らないですよね。
大丈夫です。丁寧に説明させていただきます。
いわゆる公募のコンクールです。
出品料を払い、絵を出品して、入選したらすごい、入賞したらさらに凄い、というあれです。
公募展は色々なものがありますので、ご自身の絵柄にあったとこを探すといいでしょう。
基本的に公募団体はどこもピラミッド方式です。
一番下が一般。(まずここからスタート)
次に会友(賞をとったり、活躍したりすると推挙)
次に会員(賞をとったり、活躍したりすると推挙)画壇的には、ここで一人前です。
次に委員、常任委員、副会長、会長(画壇の偉い人)
こんな感じです。
会にもより会友が無かったりしますが、まぁどこも同じようなものです。
一般的に言われているのが、初出品の一般~会員になるのに10年くらい、と言われています。
ただ、これは個人差が大きいです。
上手ければ出世が早いし上手くなければ出世が遅いし、会員まではあくまでも実力の世界です。
因みに僕は結果かいうと、横須賀美術協会は3年で会員、現代童顔会は5年で会員になりました。
腕試し
画壇の世界に入る事になります。
先程からお話している通り、僕のまわりは画壇の偉い方々ばかりでした。
当時、自分の実力に自信があった僕は、その人達が所属している画壇に出品しても意味ないな、と思ったのです。
なぜなら、出品した画壇の上の方に仲が良い人がいると、優遇されるのは目に見えているから、です。
師匠は太平洋会という美術団体のお偉い方です。
僕は一番弟子ですので、当然そこに出すのが普通だと思います。
が、僕はそれに興味が無かったです。
誘われた事はありますが、腕試しにならないし面白くなさそうなので断ります。
この頃は完全に自分の画力に溺れ暗黒面に落ちています。
皆様若気の至りですからね、皆様ご容赦下さい。
「恐れはダークサイドに通じる。恐れは怒りに、怒りは憎しみに、憎しみは苦痛へ。」
マスターヨーダさんの言葉です。
はい、完全に調子に乗っている僕は、仲間が所属していない画壇を選びます。
現代童画会です。
会員を目指し、出品します。
無双時代
初出品で初入選、初入賞。
ここから、毎年賞をとりまくります。
詳しくは★講師紹介をご覧下さい。
僕は仲間の先輩方々がいる画題の上の景色が見たかったのです。
その為には賞が必要です。
当時の絵です。
写実は得意だったのですが、特に僕の原点はキアロスクーロ。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、レンブラント、カラヴァッジオ等の大先輩の方々の影響をかなり受けています。
僕は光を描きたかった。
現代童画会ということもあり、ファンタジーの要素、空想強めで描いていますが、実際想像で描いてるのは背景ぐらいです。猫人間?の体は知り合いの子供に同じポーズをとってもらい、顔は猫を見ながら、耳はウサギを見ながら、ひよこはひよこを見ながら、衣装は全て用意してます。
モチーフは現代的、技法は古典的、そんな絵を良く描いていました。因みに油絵です。
良くまわりにはシュルレアリスムと言われていましたが、その呼び方は僕は好きではありませんでした。
皆様あまり知らない画家さんだと思いますので、ラ・トゥール先輩の絵載せておきます。
シュルレアリスムで有名なマグリット先輩の絵も載せておきます。
これは僕の絵、数年前の絵です。今でも描いていて楽しいです。
ラ・トゥール、レンブラント、カラヴァッジオを感じるでしょう。マグリット感じますか?
さて、横須賀美術協会にも出します。
僕の場合現代童画会という全国区の公募団体から出品して、そのあとしばらくしてから横須賀美術協会という横須賀の公募団体に出品したので、割りと珍しいと思います。
横須賀美術協会は三年で会員になったと先程書きましたが、初出品で大賞でした。そのあとまた大賞を取って会員です。
横須賀美術協会は70年以上の歴史がありますが、大賞を二回取ったのは僕含め三人しかいません。
教室の誰か、前代未聞の三回を取ってみて下さい。
歴史を塗り替えましょう。
こんな感じで、突如として横須賀に現れ賞を取りまくり、超出世を遂げた僕は「異端児」というあだ名がつきます。
今でも言われます。
まぁ10年たっても会員になれない人からすると面白くないですからね。
さて、僕は大人しいと前述しましたね。
今でも大人しく静かな人間ですが、大勢の人前で喋る事に緊張しなくなったのはこの頃かな、と思います。
賞をとると沢山の人の前で喋らなければいけません。そう、強制です。
最初は本当に嫌で、授賞式の会場に隕石でも落ちて中止にならないかな…とか考えていました。
毎年毎年、強制的に授賞式で喋らされ…パーティーで喋らされ…段々と緊張しなくなりました。人は変わるものです。
この頃、師匠から免許皆伝を受けます。
もう教える事はないと。
この先は自分の目で見ろと。
独り立ちです。
さて、教室を開講するまであと少しです。
ピラミッドの上からの景色
当時の僕の絵です。
これはちょっと雰囲気違いますね。
仲良しの常任委員の綱島さん(ツナッシー)に「健太君、可愛い絵描いてみなよ。」
と、言われて、一から自分なりにキャラクターを作り、作品を描きました。
現代童画会の中では、古典的な技法で描く僕は異質でしたので。
最初の二点は縦長のM50号です。(1167×727)
まぁまぁ大きいです。モチーフは現代的、技法は古典的。
イラストと絵画の中間になればいいな…と思いながら描いてましたね。
因みにM50号の二枚は縦に繋がります。まぁ、なかなかこれを繋げて展示できる場所はないんですけどね。
天井高くないと厳しいです。
綱島さんについて、少しお話します。
常任委員の方なんで偉い方なんですけど、僕が一般の頃から面倒を見てくれて、今でも仲良しです。
なんていうか…飾らない方なんで一緒に居て気が楽です。
会長だろうが、なんだろうが基本的に言うことを聞かない僕ですが、綱島さんの言うことは聞いてきました。
絵描きに偉いも何も無いわけですよ。
大事なのは、偉いかではなく、上手いかです。
綱島さんとはほとんど絵の話はしません。
会えばツムツムの話です。
新ツムでた?みたいな。
そんな関係性です。
はい。
さて、ピラミッドを登り心待ちにした画壇の上の景色が見れます。
いよいよです。
しかし、それは思っていたような美しいものではありませんでした。
僕が全てをかけて見た景色は薄汚れたものだったのです。
どんな景色なのか。
これは僕は画壇の人間であり、立場もありますので詳しくは書けないです。
気になる人は自分で登って見てみて下さい。
ですが、良い経験になったことは間違いありません。
ここでの経験が今の僕を作ってくれたと思っていますので感謝はしてます。
さて、この頃は僕も審査する側になっていました。
会の人間もそうですが、若手も実力がありません。まともな絵を描ける人があまりいなかったんです。
中には良い絵を描く人もいます。ただ、少数です。
この頃、正しい美術教育が必要だな…と感じます。
現代童画会の先輩に小学校の図工の教科書を作っている人がいるのですが、その人の話を聞いてると尚更。
特に古典を正しく学んでいる人にはほとんど出会いません。
このままだと日本の美術オワコンになってしまいます。
それも、大人ではなく子供の頃からの指導が必要という考えに至ります。
また、個人的な理由も後押しします。
僕は幼少期から正しい美術教育が受けられる環境にありませんでした。
場所も無かったです。
それが、なんというか…残念なんですね。
あとは、
ちょっと生意気な事言います。
自分より上手い絵を見たかった。
これですね。
このままいっても優秀な絵描きは出てこないし見れないだろうな…と。
じゃあ自分で育てようと、考えた訳です。
これら様々な要因がきっかけとなり、まだ二十代だったかな、教室を開くことを決意します。
それも、子供対象の美術の教室です。
因みに、僕がこんな事を書くのはどうかと思いますが…絵画の教室をやる場合は、商業的にみると大人対象のが絶対的に良いです。
安定します。
おじいちゃん、おばあちゃん相手に楽しく絵画教室をした方が安泰です。
一方、子供の教室の場合、進級での退会、他の習い事との兼ね合いで退会、諸々の理由で退会と安定しないですし、保護者様との関係性もありますしね。
その為、子供対象の絵画教室にはあまり優秀な画家がいるケースは少なく、どこかの会友とか、美術教師を定年してやっているケースが多いです。
いわゆるお絵かき教室です。
当時の僕も勿論これらは知っていましたが、子供対象の教室を開く事を決めます。
勿論周りの人達は大反対でした。
子供に美術なんて無理だ、とか。人が集まらない、とか。
あと、当時の僕はかなり周りから期待されていた若手でしたので、しばらくは自分の事、制作に専念しろ、とかも言われました。
が、そんなの関係ねぇと。
おっぱっぴーな僕は教室を開くのです。
黒猫の美術教室
さて、もうこの頃は若い頃のギラギラしたものは無いです。
すっかり丸くなり、おじさんになっています。
最近はおじいちゃんになってます。
最初は北久里浜でひっそりとやってました。
ある新聞社のカルチャースクールみたいな感じです。
宣伝などはスクールの方がして、僕は教えるだけ。
このスタイルです。
開講してまもなく、一人来たんですね。
三年生の女の子です。ちなみに今も教室にいます。
それで、その子はものすごい大人しくて全く喋らなかったんですよ。
僕が気を使い、話しかけても返答がなく途方にくれていました。
今の僕ならなんとかなると思いますが、当時の僕はただの絵描きです。
どうしたらよいものかと悩みました。
その子からしてみてもただの絵描きおじさんとマンツーマンですからね、それはそれはキツかったでしょう。
そこで、その子のお母さんに助けを求めます。
現在の助手です。
お母様にも美術教えるんで、お子さんと一緒に描きませんかと。
後にも先にも、大人で弟子としたのは助手だけです。
初期の助手の絵を載せておきます。
これは描き始めた頃のもので、ご自宅でモチーフを見たままに描いたものだそうです。
助手は美術未経験者ですが、すごいセンスがあって、かなりの早さで上達しました。
教え方が良かったのかな。
写実に向いているタイプで、教室の運営に携わり、子供達の絵を沢山みているうちに目もかなり鍛えられています。
家でも描いていたりしたようで、短期間でかなり上達します。
そんな中、曜日の関係で場所を移らないといけなくなります。
今まではカルチャースクールだったので管理してくれてる人がいましたが、場所を移すとなると、全て自分でやらなければいけません。
僕は基本的には教えることに専念したい。助手が必要だ…。
そこで、助手をお願いすることにします。
秘書検定2級なので、教室のことなど任せられたら安心です。
少数の生徒達と助手と共に、心機一転、まなびかんにて新しくスタートします。
このころ、教室の名前も変わります。
これまで大した広告活動ができず、ひっそりと活動していましたが、ホームページを開設して多くの方に見つけてもらえるようになりました。
因みにホームページやネット関係は僕が管理していますが、あまり詳しくはありません。ホームページもなんとなくで作りました。
現在
助手も大分上手くなりました。
生徒様も徐々に集まり、教室として大所帯なってきます。
しかし、今度は集まり過ぎて忙しくなってしまい、僕は本業の方に集中出来なくなってしまいました。
僕は先生である前に絵描きですので。
また、1クラスで見られる人数にも限界があります。
自由に描いてもらう教室なら一度に大勢見られるのかもしれませんが、そうはいきません。
そのため制限をかけます。新規入会は予約制にさせていただきました。
そして現在、大きな展覧会を行えるまでになりました。
機会をいただいた横浜本牧絵画館様には、大変感謝しております。
準備も大詰めとなってきましたが、引き続き気を引き締めて進めていきたいと思います。
ムツゴロウとゆかいな仲間たち展。
いや、違う違う
丸山健太と「黒猫の美術教室」展 です。
皆が頑張って描いた作品、沢山の人に見てもらいましょう。
勿論、僕も助手も出します。
最近の助手の絵です。もうその辺の絵描きより上手いと思います。
こちらの絵は僕の弟子というのが一目で分かります。
まとめ
上手く書けたかどうかは分かりませんが、全て書きました。
因みに、僕はまだ画壇にいます。
なんで辞めないか。
これは、生徒の為です。
もし、生徒が将来コンクールに出品した時に色々としてあげられる事があるから、です。
特に横須賀美術協会。
横須賀美術協会は横須賀で美術をするには、登竜門だったりしますので、間違いなく将来誰かは出品します。
なので、その時まで僕はスパイとして潜入捜査を継続するのです。
あ、本当に嫌になったら辞めますからね。
過去最大級に長文となりました。
最後までお読みいただいた方ありがとうございました。
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