レンブラント・ファン・レインの本

もくじ

レンブラント・ファン・レイン 【1606-1669】


【修業時代】

【転換期】

【版画家】

【トゥルプ博士の解剖学講義】

【サスキア】

【夜警】

【喪失】

【忍び寄る影】

【転落】

【ティトゥスとマグダレーナ】

【終焉の時】

レンブラント自画像集

レンブラント・ファン・レイン 【1606-1669】

レンブラントの自画像

1640年 「自画像」

レンブラント・ファン・レイン 【1606-1669】

レンブラント・ファン・レインは17世紀のオランダの画家で卓越した技術で光と影を描いています。
つい先日、レンブラントの真作が見つかったというニュースがあったので、ご存じの方もいるかと思います。【光と影の画家】と言われているレンブラントですが、そのまさに人生も光と影のようでした。彼の壮絶な生涯をご紹介致します。

なお【レンブラント本】は複数の文献を参考に僕なりの見解でなるべく正確になるよう細心の注意を払いまとめたものであります。


【修業時代】

レンブラントの自画像

 

1628-1629年 「自画像」

レンブラントは1606年7月15日に粉引き職人の9人兄弟の8番目の息子として生まれます。
祖父の名前ハルメンスゾーンと苗字のファン・レインをつけたレンブラントの名前にはとても高貴な響きがありますが、一家は労働階級でした。

1620年、レンブラントが14歳の頃にイタリアへの留学経験をもつ最初の師匠スワーネンブルグに弟子入りします。
しかし、このスワーネンブルグは秀でた画家ではなく平凡な画家にすぎなかったと言われています。
レンブラントはスワーネンブルグの元で3年間修行をしました。
1624年18歳の頃父親の薦めで2番目の師匠ピーテル・ラストマンに弟子入りします。
このラストマンはスワーネンブルグ同様イタリア留学経験のある画家ですが最初の師匠とは質が異なり、カラヴァッジョに影響をうけ、デッサンもしっかりしている画家で、レンブラントはラストマンから決定的な影響をうけることになります。
レンブラントはラストマンの作品を熱心に研究し、主題と構成、デッサン技術や広がりのある構図を学んだとされています。
ラストマンの元での修行を終えたレンブラントはライデンに戻ります。
そして同じくラストマンの元で修行した経験のあるヤン・リーフェンスと親しくなります。
リーフェンスは8歳の頃からヨリス・ファン・スホーテンという画家に弟子入りして、デッサンを学び、12歳の頃には独立していたといい、いわゆる【神童】でした。

二人は共通の師匠をもつこともあり、仲良くなります。
お互いの才能を認め合い、意気投合した二人は共同の工房を持ちます。
ラストマンから学んだイタリヤ式の要素(キアロスクーロなど)を取り入れた二人の評判は地元から徐々に広がっていきます。
1628年、レンブラントは最初の弟子を取ります。
15歳の少年ヘラルト・ドウです。
ドウはレンブラントがアムステルダムに移り住むまで彼のもとで修行をします。

【転換期】

レンブラントの自画像

1631年 「自画像」

1630年、アムステルダムに移り住んで間もなくレンブラントにとって転換期が訪れます。
コンスタンティン・ホイヘンスとの出会いです。
ホイヘンスは若い二人の画家の実力に惚れ込み芸術の分野において大きな影響力を持っていた彼は、リーフェンスのイギリス行きを援助し、レンブラントの作品を仲買します。
二人の仲介人の役割を果たし国外の美術愛好家達に紹介し、これがきっかけとなりレンブラントは画家としての成功を納めます。

レンブラントの作品にはたびたびインパスト技法か見られます。
ある肖像画作品では、鼻の部分などはつまんで持ち上げられるほどだったといいます。
首飾りやターバンの貴石や真珠も、厚塗りのため、まるで浮き彫りのようです。
これはレンブラントの作品が遠くから見ても力強く見えるのはこの為です。
インパスト(厚塗り)をする部分もデッサンに添ったものであり、一筆で完結させるレンブラントの技術の高さがわかります。

【版画家】

レンブラントの自画像

1630年 「目をむいた自画像」

レンブラントといえば版画家としての顔を忘れてはいけません。
美術史上最高の版画家の一人でしょう。

レンブラントに版画を通じて絵画的表現の模索の場になっていたようで、明暗の効果を生かした革新的な方法を探っていたようです。
また、弟子達を指導するのに版画を利用したという話しもあります。
版画で莫大な収入を得たレンブラントですが、後の経済的破綻を救う事は出来ませんでした。

【トゥルプ博士の解剖学講義】

トゥルプ博士の解剖学講義

1632年 「トゥルプ博士の解剖学講義」

レンブラントの出世作となったのは、1632年
【トゥルプ博士の解剖学講義】です。
この注文をうける数ヶ月前からレンブラントは定期的にアムステルダムへ来て、肖像画の注文をこなすようになっていたようです。

この作品はレンブラントを高く評価していた画商のアイデンボルフから注文をうけたようです。
この作品は完成すれば外科組合の会館に掲げらる事が決まっていました。
その会館に出入りする人は町の重要人物ばかりでトゥルプ教授自身もまた市長にも選ばれたことのある人物で、レンブラントはこのまたとないチャンスを生かそうと持ちうる技術を全て込め作品を完成させました。
【トゥルプ博士の解剖学講義】は注文主の要望に完璧にこたえながら、絵画としても水準の高い素晴しい作品になり、この作品はレンブラントの出世作になりました。

【サスキア】

酒場のレンブラントとサスキア

1635年 「酒場のレンブラントとサスキア」

トゥルプ博士の解剖学講義ですっかり名士の仲間入りをしたレンブラントは、ちょうどこの頃に住み込んでいたパトロンのアイレンボルフの家で後の妻となるサスキアと出会います。
教養が高く、華やかで、若干内気なサスキアとレンブラントは瞬く間に恋に落ちました。1633年6月5日二人は正式に結婚します。
1635年に描かれた【酒場のレンブラントとサスキア】ではひざの上にサスキアを抱き、鑑賞者に杯を掲げていて、結婚に対するレンブラントの悦びが伝わってきます。
サスキアは彼の作品のモデルとして、油彩画、素描、版画などたびたび登場しています。

サスキアと結婚し、そして画家として高い報酬を得られるようになったレンブラントはとても裕福になり社会的地位も得ます。
豪邸(通称レンブラントの家と言われています。)に住み、倉庫を借りて工房を改造し多くの弟子を抱えます。
ホイヘンスの助けで上流階級からの注文も増えたのもこの頃です。

【夜警】

フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ラウテンブルフ副隊長の市民隊

1642年夜警 「フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ラウテンブルフ副隊長の市民隊」

 

1640年、レンブラントはアムステルダムの名士であるコックからの集団肖像画の依頼を受けます。
【フランス・バニング・コック隊長の市警団】通称【夜警】です。
大変名誉な依頼であり、当時のレンブラントの地位を裏付けるものです。
レンブラントはこの大作に画家として全てをかけて描きます。
その出来ばえと斬新で緻密な構図と躍動感、緻は圧倒的な輝きを放っています。
【夜警】はレンブラントの芸術的完成、集大成であり代表作になります。
「この作品の横にかけられた絵は皆トランプ・カードのようにみえた。」という弟子の言葉が残されています。

ちなみに、1642年に完成した【夜警】ですが実は昼間の情景です。

【喪失】

春の女神フローラに扮したサスキア

1634年 「春の女神フローラに扮したサスキア」

1642年、画家として絶頂期であったレンブラントに悲しい出来事が起こります。

レンブラントは、両親、サスキア、サスキアの姉、生まれて間もない3人の我が子までも愛する者たちに次々に先立たれます。

サスキアは息子ティトゥスを出産後、床につき1642年6月14日、30歳の若さでこの世を去ります、【夜警】の制作中の悲劇でした。
レンブラントに深い喪失が襲います。
【フローラに扮したサスキア】

レンブラントはサスキアの忘れ形見である息子ティトゥスを溺愛します。
ティトゥスをモデルとした作品も何点も描かれています。サスキアを失ったレンブラントの創作意欲を刺激するのはティトゥスであり、素晴らしい作品が何点も残っています。

【忍び寄る影】

エマオのキリスト

1648年 「エマオのキリスト」

サスキアは遺言書を遺していました。
簡潔にまとめると【レンブラントとティトゥスに4万グルデンを分配する、ティトゥスが成人するまでレンブラントがそれを自由に使う事ができる。ただし、レンブラントが再婚すればこれは適用しない 】というものです。

大作を完成させレンブラントの才能、技術を疑うものはもはや誰もいませんでした。
しかし、名声が高まれば批判も避けては通れません。
「彼は注文主の意向を無視し、画家の意向だけを反映している」というものです。
これは【夜景】に言える事で画面にドラマチックな構成を与えるために中央の二人以外は完全に脇役として扱われています。
レンブラントは作品の為にあえてしたことですが、肖像画を依頼したほうは一人一人がお金を出しているため納得出来ません。
ある意味では不満が出るのは仕方のない事でした。

レンブラントの弟子たちは注文主の為に、自分が誰だかわかるように、顧客の要求にストレートに応え作品を描きました。
しかし、レンブラントは作品の質、作品の水準にこだわり絵画のもつ可能性を試し、顧客の要求は無視をします。
受け入れられたのは弟子達の方でした。
レンブラントの注文は激減します。
レンブラントに深い影が忍び寄ります。

レンブラントらしさを物語るエピソードが残されているのでご紹介します。
「一般に彼に肖像画を描いてもらいたい者は誰でも、2、3ヶ月の間は足を運んでポーズをとる必要があった。だがそんな我慢強い人はめったにいなかった。彼の仕事が遅い原因は、始めに塗った絵の具が乾くや否や、またすぐにそれを描き直すからだ。(略)彼は、一度制作に入ると作業が終わるまで、たとえ世界一の帝王が会いに来ようとも応じないだろうから、顧客は何度も無駄足を踏まなければならないというわけだ」。

【転落】

ヘンドリッキエ・ストッフェルス

 

1652年 「ヘンドリッキエ・ストッフェルス」

レンブラントの要求の高さと気ままさに、顧客は彼を見限り、遠ざかっていきます。

レンブラントはサスキアの遺産を使い、オークションや美術商で作品のモチーフとして必要になるかもしれないものや、競売に巨匠達の作品がでると競り負けないように高い金額を出しました。
教会にも通わず、異国の動物を飼い(清潔なオランダには似つかわしくないサルもいたという
話があります)。
収入以上の浪費をしました。

レンブラントはティトゥスの為にヘールト・ディルクスという乳母を雇っていましたが、彼の愛人でもありました。
また、レンブラントにはヘンドリッキエという若い愛人もいました。
そんなレンブラントの軽率で放漫な生活を人々は奇異の目で見ます。

前述した通りレンブラントが再婚すれば、サスキアの財産は没収されると決まっていました。
ヘールトは遺言を作って登録し、サスキアの遺した宝石を含む全ての財産の受取人をティトゥスに指名しました。

そんな中、レンブラントとヘンドリッキエの関係を知ったヘールトはレンブラントから贈られた宝石を根拠に婚約が成立していたと主張し、その不履行でレンブラントを婚約不履行で訴えます。
レンブラントは毎年200ギルダーを支払うように命じられます、後にヘールトがサスキアの宝石を質に入れたということで今度はレンブラントがヘールトを訴えます。
この泥沼の裁判劇は1649年に終結しますが、レンブラントは手当ての支払い義務から解放されることはありませんでした。

レンブラントは自らの作品を担保に友人達に援助を願い出ます。しかし、それでも1639年に手に入れた豪邸の分割代金にあててもなお8470ギルダーの支払いが残っていたといいます。
その後も作品が気に入らなかったとして注文主から返金を要求されるなどレンブラントの経済的苦境は続きます。

高裁によってレンブラントの財産目録が作られレンブラントは自ら集めた巨匠達の作品(素描、版画、油彩画など363品)が売却され、豪邸も競売にかけられ売却されました。

レンブラントは豪邸を失ってから、ローゼンクラフト街の小さな借家で暮らしていました。
レンブラントは自ら破産宣告を行ない、レンブラントの作品の権利をヘンドリッキエとティトゥスに与える代わりに、ヘンドリッキエとティトゥスに扶養される形をとりました。
この時には、レンブラントとヘンドリッキエはおそらく結婚していたのだと思いますが、証明するものは何も残されていません。
しかし、1663年ヘンドリッキエがこの世を去ります。
レンブラントは再び愛するものを失うのです。

【ティトゥスとマグダレーナ】

修道士に扮したティトゥス

 

1660年 「修道士に扮したティトゥス」

ティトゥスが1668年2月10日に結婚します。相手は母親の姉の姪マグダレーナだと言われています。
その後すぐにマグダレーナは身ごもります。
ティトゥスを溺愛していたレンブラントは、結婚をとても喜んだといいます。

しかし、またレンブラントに辛い試練が襲います。
同年9月にティトゥスがこの世を去りました。
結婚からわずか半年ほどの悲劇です。
孤独に落ちたレンブラントはヘンドリッキエが産んだ娘コルネリアと家に閉じこもり、口にするものは僅かなパンとチーズだけだったといいます。
哀しみの癒えぬままマグダレーナもこの世を去ることになります。
レンブラントは愛するものを失う辛さを、絵を描くことで乗り越えようとしました。

【終焉の時】

レンブラントの自画像

 

1669年 「自画像」

大切なものを失い続けたレンブラントの人生にも終焉の時が訪れます。
彼は日記の最終ページを綴るがごとく作品を描きました。
最後の数点の自画像には彼が到達した境地が、余すこと無く表現されています。
歴史上レンブラントに比類する画家は殆どいません。

晩年のレンブラントは限りなく孤独であったに違いありません。
レンブラントにとって人生は愛するものを奪われた深淵であり、なんとか絵を描くことで乗り越えられたのだと思います。

1669年レンブラントはひっそりと息を引き取りました。
やがてその名声が世界中にとどろき、驚かせる事になります。レンブラントの作品は、人々を未了し光を放ち続ける事でしょう。

 

レンブラントの自画像集

レンブラントは生涯沢山の自画像を描きました。
鏡を見て描いていたと言われていますが、恐らくは自らがモデルになり美術表現の研究をしていたのでしょう。
全てではありませんが、自画像を年齢順に見ていきましょう。

 

 

レンブラント1628-1629年 「自画像」23歳

1628-1629年 「自画像」23歳

レンブラント1629年 「自画像」23歳

1629年 「自画像」23歳

レンブラント1629年 「自画像」23歳

1629年 「自画像」23歳

レンブラント1630年 「目をむいた自画像」24歳

1630年 「目をむいた自画像」24歳

レンブラント1631年 「自画像」25歳

1631年 「自画像」25歳

1634年 「首当てをつけた自画像(レンブラント工房)」28歳

1634年 「首当てをつけた自画像(レンブラント工房)」28歳

1635年 「酒場のレンブラントとサスキア」29歳

1635年 「酒場のレンブラントとサスキア」29歳

レンブラント1639年 「自画像」33歳

1639年 「自画像」33歳

レンブラント1640年 「自画像」34歳

1640年 「自画像」34歳

レンブラント1652年 「自画像」46歳

1652年 「自画像」46歳

レンブラント1655年 「自画像」49歳

1655年 「自画像」49歳

レンブラント1660年 「自画像 」54歳

1660年 「自画像 」54歳

レンブラント1660年 「自画像」54歳

1660年 「自画像」54歳

レンブラント1661年 「自画像」55歳

1661年 「自画像」55歳

レンブラント1665年 「パレットと絵筆を持つ自画像」59歳

1665年 「パレットと絵筆を持つ自画像」59歳

レンブラント1669年 「ゼウクシスとしての自画像」63歳

1669年 「ゼウクシスとしての自画像」63歳

レンブラント1669年 「自画像」63歳

1669年 「自画像」63歳

レンブラント1669年 「自画像」63歳

1669年 「自画像」63歳


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